空き地を探す

福島白河にあるカフェの室長ブログ

”誰かに語られていた”場所/写真展感想:笹岡啓子 "SHORELINE" (2017年12月8日〜12月24日)

”語ることから避けられない”場所


私にとって、あまりにそこは語ることから避けられない場所だ。通り過ぎることができない。その場所に立ち、言葉を交わしてきたであろう幾多の人間の視線を、想起せざるを得ない。作業の進捗を確認する建設事業者、視察に訪れた政治家、戻ってきた住民、震災を機に訪れた観光客。「展望台」であるそこは、まなざし、語ることを私たちに指示してくる。

 

31 浜通り

 
SHORELINEと名付けられた写真シリーズ、何度目かの展示。通し番号31を付された写真展「浜通り」を新宿photographer's galleryにて鑑賞。
 
展示空間には、福島県楢葉町の、2012年、2014年、2017年、それぞれの時点での写真がある。楢葉町を横断して流れる木戸川の河口、太平洋に面した天神岬からの写真だ。どの時点でも、それぞれ3枚の写真をつなげて見せている。とても広い視野を持ったような感覚になる、パノラマメイクな写真。
 
以前からこのシリーズを好んで鑑賞していたのだけれど、今回特に筆を取ろうと思い立ったのは、私がこの場所をよく知っているからだ。福島県双葉郡にある楢葉町を訪ねる人は、誰しもがこの天神岬に一度は立ち寄るのではないか。海岸にそり立つ崖が岬をなしていて太平洋を一望でき、その後背地に広がる楢葉の町を眺めることもできる。岬の南側、堤防の内陸側は平野になっていて、水田や国道6号線、あるいは阿武隈高地の東端に広がる住宅地などを眺めることができる。
 
展示が、時系列順に左側から並べられているのは偶然ではないだろう。 2012年の8月まで、写真に写っている場所、そして撮影場所である天神岬は、福島第一原発から20km圏内の”警戒区域”として、例外をのぞき人の立ち入りが禁止されていた。写真に写る住宅に住む住民も、全員町外に避難していた。”警戒区域"の指定解除後も、"避難指示解除準備区域"として、住民への避難指示は2015年9月まで続いた。
 
(区域の指定と解除、名称の変遷などは複雑なので、福島県のページなどを参照されたい)
 
笹岡の写真は、太平洋から、平野部の水田、阿武隈高地麓の集落、その背景の山地までを収めている。水田や集落は、自然環境と人の営みとのつながりが立ち現れている空間そのものだ。
 
それらの空間は、誰かの住宅があり、誰かの生業の関わる場所であった。2012年の写真とそれに添えられた撮影日が、そこに誰も暮らしていないという事実を訴える。水田であったとわかる場所は、水稲ではない草木が生えている。隣の水田との境界線は、曖昧にぼやけている。
 
2014年になると、変化が訪れる。さらに水田は曖昧になり、写真の下部(おそらく展望台のある崖の斜面から生えている雑草)から伸びてくる草木が視界を遮る。人が干渉しないことで、植生の存在感が強くなり、時間の経過を伝える。一方で、水田の上には黒いフレコンバッグがその膨大な体積を主張している。放射性物質に汚染された住宅地などの表土をはぎとる、除染作業が楢葉町内で行われ、この天神岬の南側の水田に、その仮置き場が造成された。黒い立方体の土砂が、水田の上に積まれるという事態が、ここが福島県で、福島第一原子力発電所からほど近い被災地であるという情報を伝えてくる。
 
それはまた、人間の新しい営みのようにも見えてくる。除染作業は、人間が再びこの地に住もうという意思(ただし、それが元の住民のものではない可能性には留保する必要がある)を示しているようにも見える。
 
2017年の写真では、太平洋岸には新しい防波堤の姿が現れている。除染作業のバッグの数はさらに拡大する。この段階では、避難指示はすべて解除され、住民の帰還もはじまっている。従来の住民以外にも、原発廃炉作業に従事する職員も、相当数が居住しているはずだ。わかりづらいが、国道6号線の南側にひときわ目立つ建物、日本原子力機構の楢葉遠隔技術開発センターも見える。写真にはもちろん写っていないが、この撮影時点でカメラと三脚のあるこの撮影場所は、コンクリートで整地され、観光客を迎え入れる展望台として復旧されているはずだ。
 

”誰かに語られていた”場所

私にとって、あまりにそこは語ることから避けられない。通り過ぎることができない。いま、3枚のパノラマ写真の持つ情報を、ここに書き記したように。
 
しかし、にも関わらず、写真に写る砂浜に、水田に、あぜ道に、どんな名前があるか、私は知らない。
 
私は、その展望台を訪れた政治家や、その復旧作業に携わった職員の顔を思い浮かべることができる。そこが、警戒区域と呼ばれていたことを知っている。
 
ただ、その砂浜で犬と歩き、あるいは水田で稲を植え、あるいはあぜ道で駆ける誰かの名前、その姿や顔を、私は知らない。その砂浜が、誰がどんなふうに呼んだ場所であったのか、知らない。こんなにも、2011年以降のことを語ることができるにも関わらず。
 
写真が写している空間が、語らざるを得ない場所であること。そのことが私に突きつけたのは、そこが、”誰かに語られていた”はずの場所であることだった。
 
 
PARK CITY―笹岡啓子写真集

PARK CITY―笹岡啓子写真集

 

 

 

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