空き地を探す

福島白河にあるカフェの室長ブログ

地方と絶望について

きょうの日本のインターネットでは
”「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
知られざる「文化と教育の地域格差」 (阿部 幸大)”がバズっている。

gendai.ismedia.jp

阿部さんの議論には、共感する部分が多い。地方には絶望がある。都市との格差がある。大学、美術館、メディア、研究所、ベンチャー企業。およそ創造的なコミュニティと、地方で暮らす高校生が出会うことはない。僕ら地方に暮らす高校生に、”新しさらしきもの”を届けてくれるメディアは、イオンであり、マックであり、コンビニエンスストアだったのだ。紀伊国屋ブラウジングをすることも、相談に乗ってくれるちょっとした大学生チューターも、若いアーティストが実験的な展示をしているギャラリーも、放課後に立ち寄れる劇場も、僕らの世界には見えなかった。触れることもできなかった。

地方には地方の文化があると主張するのは簡単だ。わたしもそれを信じたい。しかし、あまりにこの国の地方が地方になって時間がたち過ぎた。僕らの生まれる前にはあったらしい、妙な蔵書のある喫茶店はドトールになり、古い商店街の歴史ある書店はTSUTAYAになるか、学校のワークブックの売りさばき所になった。

ぼくら地方のゆとり世代は、自意識のある時から便利なショッピングモールに囲まれている。たとえ地方暮らしでも、そこそこ便利なモールに。その街に暮らす者が、そこなしでは生活を考えられないくらいだ。しかしそこには、なにかを生む力はない。メニューやオペレーションはすべて、東京本社が考えている。それが最も利益を生む。

なにかを生み出したい者は東京へ向かい、現状を維持しようとするものが(意識的にせよ、無意識にせよ)そこに残る。

地方都市で働いているので、当事者性を孕むこの問題に、以上のような極端なモノの見方をするのはリスクがある。しかしそれでも、阿部さんの記事に共感してしまうのは、次の世代のために、私も働きたいと思っているからだ。

”教育における地域格差の帰結をあらためて言い換えれば、それは「同じ学力の子供が、田舎に住んでいるという理由だけで、都市に住んでいれば受けられたはずの教育の機会を奪われている」ということである。そして、「知っていたら大学に行っていた」人口は、間違いなく、かなりの数にのぼる。”

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

”私が必要だと思うのは、こうした偶然性に翻弄される田舎の子供たちに、彼らが潜在的に持っている選択肢と権利とを想像させてやることであり、ひいては、東京をはじめとする都市部に住む人びとに、もうすこし田舎の実態を想像してもらうことである。”

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

私はその絶望を次の世代に引き継ぐのではなく、地方のために、地方に生まれ落ちた子どものために、絶望を断ちたいと考えている。

しかし、それができる確証はいまだない。